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大地震

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 3月11日(金)19時26分11秒
返信・引用
   歴史的に大きな地震でした。ブレサリアンズのある茨城県南部でも、かなりの揺れでした。

 しかし、お陰さまで、私のところは、本棚の中身が多少飛び出したくらいで、食器戸棚も中身の無事でした。県の80%が停電中とされる今も、ガスも電気も供給されています。ただ、水道は止まってしまいました。それでも、ヒーリングは予定通り行います。

 多くのところで人的、物的被害が出ているようです。皆さんの無事をお祈りします。そして、被害に遭われた方にはお見舞いを申し上げます。私はヒーラーなので、皆さんの心身のトラブルへの対処くらいしかできませんが、もし、私でお役に立つことがあれば全力でお手伝いさせていただきます。気持ちを落ち着けるだけでも意味はありますので、必要や不安をお感じになればどうぞ、遠慮なくご連絡下さい。

 取り急ぎ、急に霊界入りすることになった方、親しい人を失われた方、心身の被害を受けた方のために、霊界の支援があることをお祈りするとともに、その支援のためにお役に立てるように心の準備をします。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

タフィさん

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 2月23日(水)18時03分2秒
返信・引用 編集済
   お久しぶりです。

>ちょっと意識変えて
試金石として仕事をしているんだと思うと‘ただ疲れる’ということがなくなりました。

 おお、すばらしい。本当にそうですね。心の持ち方一つで、荷が軽くなるものです。

>人の役に立てそうな材料を見つけた
 それは何よりですね。そして、そこから出発して、神様の愛の発露の一つになってゆくのだと思います。本当は、意識しなくても、愛の発露なのですが、それを意識できれば、今現在の自分の立ち位置がしっかりすると言うか、同じことをするにしてもそのやり甲斐が増すと言うか、何とも幸せになりますね。同時に、自分も愛の発露の一つである以上は、それにふさわしい自分でありたい、とも思えるようになります。

>見守って応援してくれている方々には感謝しかありません
 本当にそうですね。タフィさんのお話を目にして、何だか力が沸いてきました。ありがとうございます。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

こんばんは^^

 投稿者:タフィ  投稿日:2011年 2月21日(月)23時23分51秒
返信・引用
  梅の花もそろそろおわりつつあって、すぐに桃の花が咲く頃になりましたね~。
枯れ木の冬の雑木林も好きですが、春は花が次々と咲いて楽しい気分になります。

本業が閑散期に入って、例年よりも輪をかけて仕事が少なくなりました。これでは生活が苦しいので掛け持ちして仕事をしています。何かと疲れるのですが、働かなくっちゃと思う気持ちでいっぱいになるとますます疲れるような気がしていた時に、はっと気が付きました。お金や時間に追われる事を軸に考えるから、疲れるんだ と。ちょっと意識変えて
試金石として仕事をしているんだと思うと‘ただ疲れる’ということがなくなりました。

そう思えたのも掛け持ちを始めた方の新しい職場で「タフィさんはいつも元気で気持ちがいい」と言われたことがキッカケでした。そう言われた時は、えぇ~こんなにヘロヘロなのになんでそう見えるの??と損した気でしたが、そういえば結構、そんなことを昔から言われているなっと思うと、自分はどうであれ他人からすると元気に感じていてその上、それで気分が良くなる人がいるんだったら、元気でいようと、初めて人の役に立てそうな材料を見つけた思いがしました。
よく考えてみれば私にも、この人と話すと和むとか楽しくなるといった事があるのでこうやって人は人と、植物や動物も含めて支えあっているんだと思いました。
なんか、小さい子の作文みたいで恐縮ですが本当にそう思いました。

そんなことをつらつら考えているうちに 神に生かされている という言葉に合点がいきました。どこかでそんな言葉を聞くと今までは正直、囲われてただ、ご飯を食べさせてもらってるみたいだなと思っていました。でも生かすというのは自分の役目や能力を生かして生きていきなさいという勧めであり、それに対してはいつでも力になるという励ましの意味だったんだと思います。これに最初に気が付いた人は凄いです。そして見守って応援してくれている方々には感謝しかありません。親孝行と同じように心配かけないようにしなくちゃ・・ですね^^

長くなりました。おやすみなさい。
 

死生観6 つづき

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 2月 9日(水)19時23分41秒
返信・引用
   今回は、死後の経験の続きです。もう少し具体的に言えば、今回は「肉体から離れるステップとその後について」です。

 繰り返しになりますが、肉体上が如何に苦しそうに身をよじっていても、それは魂の道具、つまり、分子ロボットとしての肉体の生理的な反応に過ぎません。その人自身の魂は、ほとんどの場合には苦痛は感じていないそうです。余程霊性が高ければ、死のステップに何が起きているのかを逐一知覚出来るようですが、これまた多くの場合には、一時的に眠るような感じで肉体から抜け出します。

 実際には、魂が肉体との繋がりを切る具体的な工程がありますし、生前にスピリチュアルヒーリングを受けていたりすると、霊界の医師団がそのステップをスムーズに運ぶための作業に当たったりします。しかし、多くの場合には、それを知ることなく、気付いたら肉体から抜け出ていた、と云う状態で意識を取り戻します。

 意識を取り戻した時の環境は、人それぞれです。自分の遺体を眺めていていたり、そのそばにいたりすることがあったり、その人の関心のある場所にいたりすることもあります。あるいは、この後ご説明する霊界の入り口の世界とも言える幽界にいて、そこで意識を取り戻すこともあります。どのような環境で意識を取り戻すかを決めている要因については、充分な情報はもたらされていません。おそらく、それには非常に多くの要因が複雑に絡まり合っているばかりでなく、生身の私たちには原理的に理解できない事柄が関わっているからでしょう。

 ともかく、まずは意識を取り戻します。この時に落ち着いていて、しかも、観察力があれば、自分の変化に気付きます。その変化とは、すでに肉体を脱ぎ捨てていることによる変化です。つまり、自分の体重を感じないとか、肉体的な苦痛を感じない、あるいは、生身の世界にいたとしても、そこにある物に触れることができず、生身の人に気付いてもらえない、と云うような変化です。

 であるにもかかわらず、相変わらず、自分はそこにいますし、身体もあります。それだけでなく、周囲の様子を見たり聞いたりできます。なので、「死んだら全てが無に帰す」と思っているいわゆる唯物論者は、自分の死を自覚するのに時間が掛かってしまいます。それほど、生前と死後とでは状況が似ているとも言えます。特に、いきなり幽界で目覚めると、幽界にある物には触れられますので、余計に死の自覚が難しいようです。

 生身の世界で目覚めれば物には触れられず、幽界にいれば物に触れることは出来ますが、遅かれ早かれ、自分の変化に気付きます。中には、気が狂ってしまったのではないか?、と疑うような人もいるようです。つまり、生前と同じような状況であるとともに、一方では、明確な違いがあるので、そこのところで混乱してしまうこともあるのです。

 また、中には、何らかの理由で自分の想念で作り出した世界を見ていて、なかなか事実に意識が向かない人もいます。そんな人も、いずれは霊的な自覚がもてて、事実に目が向くきますし、周囲の霊もそのように働きかけてくれるのですが、そのようなケースについては、話がややこしくなるので、ここでは詳しくは触れないことにします。この件については、別に機会を作ってご紹介しましょう。

 と云うことで、人によって目覚める状況は様々ですが、いずれ意識を取り戻すことは共通しています。そして、その後は、これまた共通して、自分を担当する案内人に出会うことになります。それを一般には「お迎え」とか「ガイド」とか呼んでいます。実は、ガイドは、自分が担当する生身の人の死に際して、そのことはあらかじめ知っていて、死後に接触する機会を待っています。亡くなった当人が落ち着いてガイドの話に耳を傾けられるようになるまで、陰ながら見守り、早く接触出来るように霊的に働きかけたりしています。

 条件が整わないと、すぐそばにガイドがいても、あるいは、声をかけても(もちろん、これは比ゆ的な表現です)、気付いてもらえないので、接触出来る条件が整うのを待ちます。そしてやがて条件が整えば、その時にガイドの側から当人に接触します。ガイドは、その人の知識や感情の傾向その他に応じて工夫をしながら、以後のことについて説明をします。比較的多くを見聞きさせる場合もあれば、その時に必要ないことに気をとられないように多くを語らないこともあります。何にせよ、その後どうすれば良いかを話して聞かせます。

 亡くなった後にガイドに出会えた人に共通するのが、レセプションセンターとか霊界の病院とか呼ばれているところへ連れて行ってもらうことです。ガイドが連れて行ってくれるのですが、最初に話をするのは、そこへ連れて行くために必要な事柄です。

 そこは、生身の世界特有の傾向を霊界に落ち着き易い状態に変化させるためのところです。実際に、病院のようにベッドがあったり、病院やホテルのような建物である場合もあれば、いかにも「ここがレセプションセンターです」的な明確な建造物がない場合もあります。要するに、地上的な要素を霊界的な状態に変化させ易い環境があれば良いのです。と云うのは、確かに肉体は脱ぎ捨てましたが、肉体と魂とを結び付けていた中間的な身体が残っていたり、肉体的な障害の影響が残っていたりするので、それを幽界用に変化させる必要があるのです。

 つまり、幽界においても、幽界用の身体で活動をするのですが、この辺りのお話は、稿を改めましょう。

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死生観6

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月27日(木)13時00分4秒
返信・引用
   今回は、死後の経験についてご紹介します。と言いましても、私自身、今現在生身で生活しているので、これは霊界からの情報を整理したもの、つまり、受け売りです。又、死後の生活環境と言うか、死後の世界と云うか、それらは、ステップを踏んで生身の世界から次第に遠ざかって行くため、そして、遠ざかれば遠ざかるほど生身の世界の言葉では説明できなくなって行くようなので、あまりに深い領域のことについてはまともな情報さえありません。

 なので、ここでのご説明は、死後の世界の入り口近くのことに限定されています。それはともかく、まずは、死後に、何が起きるのか、その辺りを、実際に死後の世界に住む人たちの証言を元に、ご紹介しましょう。

 死そのものは、多くの場合には、苦痛を伴わないそうです。何らかの病気や怪我、あるいは、意図的に死に至らしめるような場合には、まだ生きている間は、苦痛や不安を感じることもありますが、それは正に生きている間のことです。死のステップに入れば、原則として苦痛からは開放されるようです。ただし、意識があまりにも肉体的であったり、この世のこと(特に苦痛に関して)に関心が強すぎたりすると、いつまでも肉体的な苦痛を感じたままになってしまうことがあります。しかし、それは、少数派です。

 肉体が苦痛に身をよじっていようと、苦しそうな表情をしていようと、魂が肉体から離れ始めている時には、その人自身はもはや肉体的な苦痛は感じていないことが多いそうです。苦しそうなのは、単純に肉体の反射であって、その人自身である魂の苦痛ではないそうです。これって、親しい人の臨終やそれに近い状態に接する私たちには、朗報ですよね?。その人自身が苦しくないのであれば、肉体が身をよじっていても、かわいそうに思わなくて良い、と云うことなのですから。

 ひとたび死のステップに入れば、もはや生身のお医者さんやヒーラーが何をしようと、もう、その人を生身の世界へ戻す方向への努力は、報われることはありません。逆に言えば、臨死体験や危篤状態からの回復は、見た目がどんなに死にそうであったとしても、肉体と魂の関係の上からは、まだ、死のステップは踏んでいなかった、と云うことでもあります。要するに、肉体の死は、脳の死や心臓の停止ではなく、魂が肉体から完全に離れることなのです。肉体が生きていると云うことは、意識があろうがなかろうが、脳の電気的な活動があろうがなかろうが、魂がまだその肉体を使って活動をしている、と云うことなのです。人の意識を脳の活動の結果、と定義してしてしまえば、脳死はもはや死と同じですが、現実は違うそうです。脳を使っての活動を出来ない状態でも、魂の生身を使っての経験は継続していますし、まだ、死んではないのです。

 この問題は、移植医療の問題と直結するのですが、霊が実在である以上は、人の死とは脳死ではなく、魂が肉体から離れること、と明確に定義できます。逆に言えば、魂が完全に肉体との縁を切ってしまえば、その肉体は生きられません、活動を永遠に止めるだけ、つまり、本当の死がやってきます。そして、魂、つまり、その人自身は、肉体から抜け出した状態となります。その時の経験については、続きに譲ります。

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みっくすさん

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月24日(月)19時17分23秒
返信・引用
   こちらではご無沙汰ですね。

>軌道修正をしてもらえた気がします
 お役に立ったようでうれしいです。そして、そう言っていただけると、元気付けられます。

>また現実に躓くかと思いますが、
>ここへ来て、気持ちを立て直したいと思います。

 そうですね、私も躓いてばかりです(^^ゞ。でも、その度に、なぜ躓いてしまうのか、その躓きが何を意味するのか、と云うことを考えるための材料にしています。
 

死生観について

 投稿者:みっくすメール  投稿日:2011年 1月23日(日)20時35分12秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。みっくすです。
江戸崎さんには、メールでアドバイスをいただいております。
ビデオメッセージのご紹介もありがとうございました。

私はつい、現実を嘆いてばかりで
気持ちが前に進まないことが多々あります。

悩みに対し、この死生観の5つのお話は
参考になる事柄がいっぱい書いてあり、
本質を忘れてしまいがちな自分の心の
軌道修正をしてもらえた気がします。

また現実に躓くかと思いますが、
ここへ来て、気持ちを立て直したいと思います。
 

死生観5続き

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月23日(日)20時07分53秒
返信・引用 編集済
   死後の世界は、肉体を持っているが故の不都合や制約から解放された世界である、と云うことが生身の世界とは異なります。これは、前の稿でご紹介したことです。そして、もう一つ、異なることがあります。それは、物質的なことより、霊的なこと、精神的なことに重きが置かれる世界だと云うこと、言い方を換えれば、霊的な価値が基準になる世界だ、と云うことです。全てが霊的な価値で決まるので、自分のいる環境も霊的な価値で決まります。つまり、生身の世界では、色々な霊格の人が入り乱れて生活しています。これは、別の角度から見れば、霊格よりも、物理的な条件の方が優先して表現されている、と云うことでもあります。霊格が全く違う間柄でも、いつ、どこにいるか、と云う物理条件さえ合わせれば、一応は同席できるのが生前の世界です。しかし、死後の世界では、そうではなく、霊格の合う間柄、趣味志向の合う間柄なら相互に交流できますが、霊格や傾向が大きく違えば、交流できません。まぁ、類は友を呼ぶ、と云うところでしょうか。

 それはそれで別に扱うだけのボリュームのある話なので、今は、このくらいにして、話を先へ進めます。前回の紹介と、上で紹介したようなことが違いますが、では、どう云う点が似ているのでしょうか、今回は、主としてそちらをクローズアップしましょう。つまり、死後の世界にも身体はあります。物質でできた肉体とは違いますが、霊的な身体があり、顔かたちがあります。肉体とは違って、形が機能を支配しているのではありませんが、自分を表現する手段として、身体があるのです。そのために、死後間もない人は、自分が死んではない、と誤解してしまうことも少なくありません。

 又、その身体は、意志の力で自在に変化させることができます。物質で出来ているのではなく、その人の霊格や浄化の程度に応じた霊的なもので出来ているからです。それを幽体とか霊体とか言いますが、その違いは今は良いでしょう、とにかく、霊的に実感のある”もの”で出来ています。その霊的な身体を使って活動するので、見た目の印象では、生身の世界と似ています。

 その他、亡くなってあまり時間の経っていない人の意識は、生前のそれと大きくは変わりません。もちろん、自分の死を自覚したなら、そして、霊的な世界に慣れてくれば、生身の頃よりもものの本質、つまり、霊的な価値に目を向けるようにはなりますし、視野も広がります。何しろ、生身の頃の意識があるところへ、霊的な視野も加わるのですから、視野は広くなります。しかし、だからといって、急に悟りきるのではなく、その人の性格や好み、と云うものは生身の頃の特徴を色濃く残しています。美しいものが好きだった人は相変わらず美しいものが好きですし、音楽が好きだった人は音楽が好きなままです。思慮深かった人は、死後も思慮深いです。つまり、そう云うところが生前から引き継がれるのです。なので、今をどう生きるかが、死後の自分を作る、と言えるのです。

 まぁ、それはともかく、生前の傾向は、死後間もないほど色濃く残ります。特に、物質的と云うか、表面的なことほど、死後の浄化の程度が浅い時にはそのまま残るので、死後の霊的な自覚が芽生え切らない所謂未浄化の頃には、生前の生活をそのまま延々と繰り返してしまうこともあります。例えば、病院で苦しんでいたとすると、自分の死に気付かずに、相変わらず病院にい続けてしまう、などです。もちろん、そう云うケースでは、浄化出来ずにいる理由、例えば、強い恨みやこだわり等があり、それに縛られているなどの理由があるので、普通はそこまで生前のままで気付かずにいると云うことにはならないのですが、ともすると、生身の頃と死後の自分とが区別できないくらいにシームレスなのです。

 死後に死をどうやって自覚して行くか、と云うことも、それはそれで一大テーマなのでその説明は別に譲るとして、話を更に先へ進めます。死後の身体や意識、つまり、”自分”が良く似ているだけではありません。死後の世界にも、街があり、大勢の人がおり、自然があり、芸術があります。空も山も川も海もあり、動物や植物もいます。肉体がないので不快に感じることはありませんが、自然環境と云うものがあるのです。自分の住む家までもあるのです、本質的には必要ないのですが、みな自分の住む家を持っているそうです。

 ただ、肉体の五感を通じて感じるのではなく、全てのことは、霊としての本来の感じる能力それそのもので直接に感じ取るので、美しいものはより美しく感じるそうです。そし霊界に住む霊はみな一様に、自然は生身の頃の自然よりはるかに美しくすばらしい、芸術も地上の芸術よりずっと美しくすばらしい、と紹介します。地上の自然も芸術も、霊界のすばらしい自然や芸術の出来の悪い模倣品だ、と云うことです。そのすばらしさは、「地上に表現する言葉がなく、例えるものがないので、伝えようがない。」のだそうです。

 死後の世界と云うのは、そうした感じなのだそうですが、では、人は死んだらどんな経験をするのでしょうか?。どう云う経緯で、そうしたすばらしい世界の住人となるのでしょうか?。次には、その辺りをご紹介します。
 

死生観5

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月20日(木)12時53分47秒
返信・引用
   これまでのお話で、生身の人生は死後の生活のためにあること、生身の人生の引き続きが死後の生活であること、ただし、死後の生活にはその人の霊的な履歴だけが引き継がれ、物質的な側面や、地上的な評価は引き継がれないないことなどをご紹介しました。要するに、霊としての浄化、向上、貢献を如何にしたかが問題なのですね。

 それでは、霊界における生活とは、どんな様子なのでしょうか?。生身の生活と、どこが違い何が似ているのでしょうか?。今回はその辺りのことをご紹介します。それは、観念的に言えば、肉体を持っているが故の制約や不都合から解放された生活であって、それ故の違いがある、と云うことです。逆に言えば、肉体を持っているが故の事情を除けば、死後の生活は今現在の生身の生活にある意味でとても良く似ています。

 もう少し具体的にお話ししましょう。肉体を持っているが故の制約や不都合とは、例えば、生身の世界では、肉体を維持するための努力が必要で、そのために行動が制限を受けていますね。食事しなければいけない、暑さや寒さから身を守らなければならない、睡眠や休息が必要でそのための寝床や住まいを用意しなければならないなど、しなければならないことが多々あります。そして、それらを行うためには、お金が必要で、お金を得るために長時間の労働が必要で、そのために自由に時間や身体を使えません。あるいは、肉体と云う一種の道具の性能に行動の自由が制限されています。空を自由に飛ぶことや水の中に長い間潜っていることは出来ませんし、走って移動をするにも、その速度には限界があります。肉体の生理や物理的なルールを超えることはできません。それらの全てが、肉体を持っているが故の制約や不都合です。

 又、肉体があるが故に苦痛や不快があります。それらは、肉体上の問題だけでなく、精神的な面にも影響し、肉体があるが故の楽しみを得られなかったり、止めなければいけないなどの苦しみがありますし、苦痛や不快を恐れる、と云う苦しみもありますね。更に言うなら、肉体的な感覚で物事を知り判断していることから、他の人との心の交流が実におぼつかなく、誤解やすれ違いがあります。その上、死別の苦しみ、などもあります。

 死後の世界とは、そうした肉体を持つが故の制約や不都合から解放された世界なのです。長くなりましたので、続きは稿を改めます。
 

死生観4 続き

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月14日(金)22時15分38秒
返信・引用
   人生の目的が、霊界生活に備えての体験学習にあることをご紹介しました。又、その学習の課題、教材、カリキュラムは、人により様々であること、そして、それらは、生身として生まれる前に計画されていることもご紹介しました。どうして人により様々であるかと言うと、それはこの生身の人生の前にも魂の履歴があり、そこでの達成の内容が違うからです。この世にもあの世にも偶然やでたらめはなく、全てが予め用意された法則に則って生じている以上は、現状の全ては自分にその原因を帰すべきであることもご紹介しました。と言っても、単純に良いことをしたから良い環境、悪いことをしたから苦しい人生、と云う具合に考えることはできません。今回は、前回の続きとして、その辺りから話を広げて行きたいと思います。

 前回にも少しだけ触れましたが、そもそも生身の私たちの善悪の基準が的外れですし、人生環境を決定するのは、何も因果応報だけではありません。自分で選んでいたり、自分のためになるとして決めているのですから、全ての原因を自分に帰すべきなのですが、だからと言って、全てが前回の人生の裏返しや償いのためとは言いきれないのです。原則は、あくまでも、それが自分にとって霊的に向上するために都合が良いことだ、と云うことです。所謂カルマの法則、因果応報、罪の償いは、数ある霊的な向上のために都合の良いことの内の一部でしかありません。貧乏な環境にあえいでいるからと言って、過去世で贅沢三昧をしたつけとは限らないのです。

 例えば、これまでの生身の生活、あるいは、霊界での活動では経験できなかったことを経験するための課題だってあるのです。失敗したからやり直すために人生がある、と云うイメージがあるかとも思いますが、それだけでは、向上して行けません。全く新しい経験を求めての学習課題だってあるのです。ただでも過去世を思い出せないところへ持ってきて、それがカルマの問題なのか、新しい挑戦課題なのか判別できない以上は、現状を見て、その人の過去世や霊性を云々することなどできません。なので、そう云うイメージを持っている人は、考えを改めてくださいね。

 それはともかく、霊的に償うべき失敗を犯したままにしていても、新たに挑戦すべき課題があるにしても、それらをそのままにしていては向上ができません。そのために、この人生で経験しているのです。ただ、「それじゃ、その経験は霊界ではできないのか?。霊界での活動は向上にならないのか?。霊界での人生が主体で、生身の人生は補助的なものなのに、おかしくはないか?。」との疑問が生じます。その疑問はもっともです。そのお答えは実は、簡単なのです。結論を云えば、霊界でも償いや学習はできます。ただ、霊界の一つの特徴として、思いが実現し易い世界だ、と云うことがあります。つまり、全てを思念で行うことと、波長同調の法則があるために、自分が嫌だと思う経験はしなくても済んでしまう、と云う面があるのです。

 生身の私たちは、嫌であろうが何であろうが生きて行くために、そして、周囲との調和を保つために、自分の思いとは関係なく、何かをしなければならないことがあります。ご飯を食べたくても、それを手に入れるための努力はしなければなりません。好みの生活環境を維持するためにも、それ相応の活動をしなければなりません。と云うより、大部分の人は、ただ生きて行くためだけでも、嫌なことをたくさんし続けざるを得ない環境にあります。しかし、霊界では、そう云うことがないのです。思念でことをなすために、特別お金や貸し借りはありません。嫌ならじっと何もしないでいても、困ったことにはなりません。したいことをし続けても良いのです。お金、時間、体力などのために、したいことを我慢したり、途中で切り上げたりする必要がないのです。

 なので、必要なことは分かっていても、「嫌だ」と思ってしまえば、学習から遠ざかってしまうことも可能なのです。そもそも、何をするにも、苦しい思いをしなくて良いのですから、魂を磨くための苦しい経験になり難いのです、「嫌だ」と思ってしまう霊にとっては。

 つまり、霊界でも自分を磨き、霊的な借金を返すことはしようと思えばできますが、それを避けたがる程度のレベルの魂には、事実上難しい面がある、と云うことなのです。なので、そう云う魂、好き嫌いがあり、損得勘定がある程度の魂には、苦しい現状から逃げられない環境の方が好都合なのです。そのような魂にも、向上したいとする欲求はあります。そして、自分の苦手なところの自覚も充分にあります。その苦手なところが、霊界での活動や向上の妨げになっていることも良く分かっています。更に、逃げられない環境に身を置く方が、向上が早いことも良く承知しています。

 そこで、多くの場合には、自ら望んで生身での学習のための人生に入るのです。ただし、中には、高級霊の指導の元に、懲罰として半強制的に生身の世界へ送り込まれる場合が、少数ですがなくはありません。逆に、もう、生身の環境でなくとも、霊界で向上できるレベルにあっても、生身の同胞のために犠牲的精神で、奉仕にやって来る場合もあります。ただ、それも少数派です。多くの場合には、霊界では逃げてしまって学習にならないので、自ら逃げられない環境を求めて生まれてくるのです。

 その証拠に、霊的真理が社会の基盤になっていない現状では、多くの人の本性がそのままに顕れて、ものの判断が損得勘定、苦楽、好き嫌い、その他になっているようです。この地上に生まれてくる程度の魂の特徴が、社会の特徴になっていないでしょうか?。多くの人が、嫌なことを避け、楽を求め、それが許されるならすべきことを後回しにしていないでしょうか?。もちろん、そう云う魂は、もう一方では、向上も求めているので、結果としては、怠けるだけ、自分勝手だけでもない、と云う側面も表現されていますね。

 つまり、この生身の世界がある必要性は、苦しみから逃げたがる程度の魂が逃げ出せないように、と云うことなのです。なので、多くの場合に、自分磨きが苦しく感じられ、実際に客観的にも苦しいものになるのです。その意味では、ほぼ全部の宗教の言うところの、”ご利益”は、とんだ頓珍漢と云うことになります。同時に、そのようなご利益信仰に人気が集まるのは、生身の世界に生まれてくる魂の特徴からして当然とも言えます。政治や教育が損得や競争に終始してしまうのも、社会を作っている魂の傾向を理解すれば、頷けます。

 しかし、それでは、もったいないのです。それでは、せっかくの生身の人生の多くが無駄になってしまうのです。そこで、生身の人生が無駄にならないように、高級霊が私たちを手助けしてくれているのです。その事実と手助けの内容に気付き、自分の生活をそれに合わせるようにしようと云う生身側の生き方や活動をスピリチュアリズムと呼んでいるのです。

 死生観の修正と云う意味では、体験学習の課題は、自分の苦手なこと、あるいは、充分にマスターできていないこと、それに、これまでの失敗の後始末、と云うことになります。霊界での活動は、生身の世界の活動より幅が広いのだそうですが、その際の要が”心のコントロール”であり、他への思いやりです。嫌なことから逃げない強さであり、物事を嫌か嫌ではないかと云う主観で判断しないこととも言えます。それが徹底すれば、生身でなくとも向上を続けられますし、他のために役に立ち続けることができます。そのレベルに達しているなら生身として生まれることからは卒業です。しかし、まだそのレベルにない私たちにとっては、逃げられない環境に身をおき、苦しいと思えるような課題に挑戦する必要があります。そのために今があり、充分にできていないので、辛く思えるのです。

 と云うことで、課題は嫌なこと、とも言えるかもしれません。まぁ、表現や受ける印象は向上の程度によるのかもしれませんね。それはともかくとして、次には、死後のことについてお話ししましょう。それを整理しないことには、生身の人生の課題について納得がいかないでしょうし。

 さて、話題は違うのですが、ブログ「おすそわけ」に新しい試みとしてビデオメッセージをアップしました。第一弾は、「苦しいなら」です。よろしければ、そちらもご覧下さい。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

死生観4

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2011年 1月 4日(火)19時31分22秒
返信・引用 編集済
   謹賀新年。

 さて、間の抜けしてしまった時期の新年のご挨拶は割愛するとして、早速、お話の続きとまいりしましょう。お話の続きは、人生の真の目的についてです。

 死生観1において、
>「今をより良く生きるために、正しい死生観が必要で、そのためのスピリチュアリズムであり、霊的真理といえます、とりあえずは。

と言いました。確かにその通りなのです。今をより良く生きるために霊界からメッセージがもたらされているのです。それは事実です。しかし、”今”は、これまでのお話の通り、霊界での生活環境に色濃く影響します。それも、物的な事柄は持って逝けず、霊的な事柄だけを携えてあの世に赴くことになりますし、自分の言動の霊界における価値も、地上におけるそれとはまるで異質とも言えます。

 そして、霊界でこそ、自分の本性にぴったりとマッチした生活が送れるのです。赴く世界が高すぎて肩身が狭いとか、逆に、レベルが低過ぎて退屈や不快であるとかはなく、自分にとって嘘偽りなく、見栄も建前もなく、一番リラックスでき、快適な環境です。また、ここまでお読みいただけばお分かりだと思いますが、霊界に赴いても、生身の時のことは忘れていません。逆に、私たちは、生身の世界に来る前のことは基本的には忘れています。このことから、意識としては、霊界においての方がより広く、生身の人生は制限がかかった世界であることが理解されます。つまり、生身の人生も霊界における人生もどちらも大切であることに変りはありませんが、序列としては、霊界が主で、生身の世界が従であると推察出来るのです。

 となると、今をより良く生きるための霊的真理であり、霊的なメッセージなのですが、”今”が、霊界生活のためにある、霊界での生活環境を決めるためにある、と云うことにも行き着くと思います。もちろん、このことは、霊的なメッセージに異口同音に語られていることなのでご紹介しているのですが、例え直接にそうしたメッセージがなくとも、生身の人生が霊界における生活のためにあることが推察されるのです。逆に、その結論と霊界からのメッセージが一致していることをもって、霊界の言わんとしていることの正当性が、少なくとも人生の目的に限って言えば正しいはずだ、と推察されます。

 もう結論を書いてしまいましたが、この生身での人生は、霊界生活に備えての体験学習のためにあるのです。なので、スピリチュアリズムや霊的なメッセージは今をより良く生きるためにある、とりあえずは、との表現になったのです。今が死後のためにあるのなら、スピリチュアリズムも霊的なメッセージも本当は霊界生活に入ってからのためにある、と言えるのです。

 ただし、死後のためには、今をより良く生きる必要があることに変りはありませんし、何がより良いのかは、霊的な事情に照らして決まることなのです。なので、この生身の社会通念で言うところ、あるいは、生身的な感覚に訴えるところの良い・悪い、快・不快で決めるわけにはゆきません。それらは、霊的な生活に備えて好ましいかどうか、で判断することです。

 大きく言えば、生身の”今”は霊界生活のためにある、となるのですが、しかし、具体的な目的は人それぞれなのです。霊としての発達段階が人によって様々だからです。生身として生を受けての経験や環境に違いがあるだけでなく、その前から霊なので霊界における生活の履歴があり、あるいは、さらにその前の生身での生活の実績があり、と云うことがあっての”今”です。なので、到達している発達段階が人により異なり、得手・不得手が違い、今回の生身の人生での達成目標が異なります。学習の課題も、教材も、カリキュラムも、人それぞれなのです。

 一方で、物理的な事柄だけでなく、精神的なことにも霊的なことにも、全ての事象・現象には、それ相応の原因があります。もちろん、原因だけでなく、そこに働くルールがあり、原因と環境が決まれば、ルールに従って結果が生じます。そこには、いい加減さはありません。偶然とか、でたらめはありません。つまり、自分に起きていることには、自分に関わる原因があります。原因があるから、、ルール、つまり、摂理が機械的に働いて、今の環境を作っています。

 そのために、一見すると不公平に見える生身の人生ですが、それは全部自分に帰すべきことなのです。因果応報と云うことです。ただし、言葉のイメージに騙されないでくださいね。自分がありがたいと思わないことは、自分が過去に悪いことをしたから起きている、とは限らないのです。と云うのは、そもそもありがたいと思うか、避けたいと思うかは、生身故の歪んだ価値観、制限された認識によって決まっていることなので、それが即ことの善悪に直結しているわけではないのです。目には目を、と云う因果関係だけがあるのではありません。それに、善だの悪だのの意義付けも、この世的で狭い価値観によっているのですから、その因果関係を生身に生きる私たちに逐一理解することは事実上出来ません。なので、辛い思いをしているから、過去に悪いことをした、との判断は正しいとは限らない、と言うより、大部分の場合には、間違っているとさえ言えます。

 個別には、人それぞれなのですが、それでも、大きく俯瞰すれば、みんなに共通したことは分かっています。それは、この人生は自分で計画している、あるいは、どう云う人生になるか大筋では承知し納得している、と云うことです。ただしそれは、霊としての意識の自分のことなので、それを思い出すことは出来ません。ですが、漫然と生まれてきているのではなく、必然と意図を持って計画して生まれてきている、とは言えます。そうでなければ、効率悪くて仕方ないですから。

 そして、もう一つ。人生上の教材の多くは、自分にとっては辛く、苦しいものです。苦手だから課題にしているので、それを克服するための教材は辛くて苦しいのが道理です。つまり、この人生の真の目的は、自分の嫌な経験を通じて、自分を磨き、晴れて霊界入りしたときには少しでも良い環境や条件で活動できるように、学習と訓練のためにある、と言えるのです。

 長くなりましたので、続きは、あとの稿に譲ります。

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タフィさん

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年12月27日(月)00時55分32秒
返信・引用
   お久しぶりです。

>先送りにしている問題や意識的に避けている問題はなにかにつけてちょこっと顔を出してきます。あの世、この世、どちらにいても良心が痛むうちは抱えている問題に追いかけられるんだと思います。
 そうですね、そう云うことだと思います。

>選択の自由を逃げのいい訳にしないようにしたい
 誰にでも一律の決まりごとがあるのではなく、人それぞの実力や傾向にあった課題があり、表面上は皆違う、と云うことです。そして、本当の意味で学ぶためには、自分の意志で選択し、その結果を受取ることが必要です。なので、選択の自由は、責任とセットになっている、と云う点が重要です。その点を忘れなければ、逃避の免罪符にはなりようがないと思いますよ。逃げた責任がある以上は、結局は逃げられないのですから。

>生きていくのってつらいなぁ~!!
 そうですね。トレーニングですからね、辛くて当たり前なのでしょうね。でも、それも、考えようです。普通なら”辛い”と思える出来事や責務の中にさえも、喜びや楽しさを見出すことは可能です。”辛い”と思いながら向き合うより、楽しみを見つけ、それに向き合えれば、不思議と辛くなくなります。否、逆ですね、”辛い”と思うから”辛く”なるのですね。”面白い”と思えば、”面白く”なるものです。そうして向き合うと、同じ向き合うにしても、辛さは随分と減るはずです。

 口に出すかどうかに関係なく、愚痴は有害です。それをするから苦しくなるのです。全ては認識の問題ですから、愚痴を前向きな受け止め方に変えて行きましょう。お互いに苦労はありますが、それをRPGのイベントだと思って、楽しみながら挑戦して行きましょう。極論ですが、そう云うことが出来るようになるために、生身で修行している、とさえ言えるのですから。

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こんにちは♪

 投稿者:タフィ  投稿日:2010年12月26日(日)15時37分35秒
返信・引用
  大変、ご無沙汰しております。
来週には新年が来るなんて、本当に一年は早いなぁと思います。
江戸崎さん、お元気でよかったです^^
分かりやすいお話を沢山、書いてくださってありがとうございます。
読めば読むほど‘巡っている・・’と思います。先送りにしている問題や意識的に避けている問題はなにかにつけてちょこっと顔を出してきます。あの世、この世、どちらにいても良心が痛むうちは抱えている問題に追いかけられるんだと思います。
選択の自由を逃げのいい訳にしないようにしたいです。
甘えた発言ですが・・生きていくのってつらいなぁ~!!・・空を見ながら思います。
(たまには楽しい事もあるけど^^;)

皆様、今年もお世話になりました。来年も宜しくお願いいたします  ノ(_ _ ノ)。

良いお年を☆
 

死生観3

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年12月24日(金)01時15分2秒
返信・引用
   生身の生き方が死後の生活にどう関わるか、それが今回の話題です。結論を先に言いましょう。つまり、生前のその人の行き方は、死後のその人の生活環境を作るのです。どのようにして自分の環境に落ち着くかのステップについては、別にご説明するとして、結果的には、良くも悪くも、生身の内に作り上げた自分と云う人格に最もふさわしい生活環境の中に落ち着くことになります。

 こう言うと、病気だった人はどうなのか?、生まれて間もなく亡くなった赤ちゃんはどうなるか、と云う疑問が聞こえてきそうです。もっともな疑問です。しかし、大事なのは病気で伏せっているにしても、その人の精神がどのように活動していたか、です。病気だった人があの世でも病気のまま、と云う単純なことではなく、その病気の苦しみや看病をされる経験その他から、霊として何を学びとったか、が要(かなめ)です。そこで愛について充分に学び、あるいは、辛抱をすることで充分に精神を鍛える自由もあれば、病を呪い、世間を呪い、ひがんで生きる自由もあります。どう云う選択をしたかで、その人の魂の傾向が決まります。すると、死後には、その傾向にマッチした境涯に赴くことになります。

 とは言っても、それは、表面の意識だけのことではありません。もちろん、表面上の言動も大事です。病床にありながら、他の人々に勇気や希望を与える人もいます。そうした人の霊的な実績が高いのは言うまでもありません。がしかし、ことは霊的なことなので、表面のことだけでなく、その人の心の奥深くも大事なのです。時に、それは、注意しないと、自分さえ気付かないような奥深くのことが関わっていることがあります。もっとも、それも、結局は普段の自分に影響を与えていますし、普段の意識の影響も受けていますから、日常に気を付けている必要があることに変りはありませんが・・・。

 生まれてすぐに亡くなるような赤ちゃんの場合はどうでしょう?。そのような赤ちゃんは、確かに、生身としては自由意志を行使して、自分の人格を形にしたり、何らかの霊的な実績を意図して残せてはいないように見えます。しかし、先にもご紹介したように、ことは霊的な事情なのですから、生まれてすぐに亡くなる人生となったことも偶然ではなく、それなりの必然の結果であり、それなりの霊的な意義があります。実は、お腹の中も生身の人生の一部なのですが、その時の人生で必要であったのが、お母さんのお腹の中での経験であり、それ以外は目的外であった可能性があります。あるいは、生身的にはかわいそうな死を遂げることそれ自体に意義があった可能性もあります。そう云う地上的にはその意義を理解できないケースもありますが、それでも、その人の必要や必然によってそうなった以上は、それが死後に影響をします。もっと地上で学んだり、地上を謳歌すべきであったのに早く亡くなってしまった場合には、その埋め合わせもあります。あるいは、霊としては、前世が数多くあります(仏教その他で言うほど、”人”としての前世が多いわけではありませんが)。霊界での生活の実績もあります。なので、赤ちゃんのまま亡くなっても、決して無意味ではありません。

 病気であることも、赤ちゃんのまま亡くなることも、それはどちらも肉体上のことです。霊的なことに影響をしていますが、肉体上の特徴をあの世に携えて行くのではないのです。そう云う意味では、脳死になり、意識がなくなっても、その人は死んでいません。移植にかける患者さんの苦痛や、移植に携わる医療関係者、臓器を提供する方々の誠意を軽視するつもりはありませんが、それでも、事実として、脳死状態でも、魂はまだ、その肉体を使ってこの世的に生きて、それなりの経験を積んでいる最中なのです。なので、生身の人が霊的な事情を無視して勝手に身体を切り刻むのは、好ましくありません。人は、脳ではなく、霊魂だからです。そして、霊が肉体から完全に離れれば、その肉体は死んでしまいます。逆に、肉体が生きている以上は、霊魂はまだそこにいることの証なのです。

 脱線しましたが、話を元に戻しましょう。要するに、病気であろうと、赤ちゃんであろうと、植物状態で脳死と判定されようと、霊魂としての活動、経験、実績が問題で、それをあの世へ持って行く、と云うことがポイントなのです。愛に溢れる生き方をしているなら、その人の霊的な人柄も愛に溢れており、それが死後の生活環境を愛に溢れるものにします。すさんだ心でいれば、それが死後の生活環境もすさませることになります。固定観念や先入観にとらわれずに、事実をありのままに見て受け入れるように心掛けていれば、死後も真実に目が向きます。逆に、固定観念や先入観で物事を見て行動する習慣が身についてしまえば、死後に、真実に目が向くまで、長い時間をかけることになります。

 物質的な豊かさは関係ありません。物質的に、経済的に恵まれなくても、自分のことより他人様を優先する優しい行き方はできます。競争社会で生きて行くための定石を身に付けてそれを活用していようがどうであろうが、それでもそれらに縛られずに真実に目を向ける努力をすることは出来ます。愛に溢れ、より多くの真実に触れる生活環境に赴きたいなら、生前からそのような自分を作ろうとすることです。

 又、生身で生きている時に身に付けた知識や技能が、死後のその人に影響を与えることも多々あります。生身の社会にだけ通用する知識や技能であったとしても、それをその人の人格形成に反映させているなら、あるいは、調和的で優しい生き方に活用しているなら、それはそのような人格を作ります。逆もしかりです。他人を蹴落としたり、出し抜いたり、苦しめることに活用するなら、そう云うすさんだ環境に落ち着くことになります。

 つまり、そう云うことです。今の心が明日を作るのと同様に、今の生き方の精神面がそのまま霊界での生活環境を決定付けるのです。死んでもお終いではない、と云うことを説明すると、唯物論者の中には、「それでは自殺を奨励しているようなものだ」と云う頓珍漢な非難をする人もいます。しかし、それは、話を最後まで聞かずに、否定のための否定をすることでしかありません。今の精神性が死後を決定するのですから、自殺と云う身勝手をすれば、その身勝手さが死後に悪影響するのだから、自殺なんてするものではないと結論できます。それどころか、例え一生懸命に生きても、自分勝手に一生懸命ではまずかろうと結論できるはずです、今と死後の関係の説明に耳を傾ければ。

 霊界側が多くの困難を克服してでも生身の私たちにメッセージをくれた狙いは、正にそこにあるのです。今を楽しむために今があるのではなく、死後にも今が影響を与え続けるからこそ、今を大事に生きなさいね、と云うのが論旨なのです。生身時代の記憶を持ち、それが霊界での生活とどう関係しているかを日々痛感している死者たちが、それ故に今を大切に生きなさい、と言っている所に重みがあり、そして、ユーモアさえ感じませんか?。まぁ、それはともかく、次は、生身の人生の真の目的についてお話します。

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死生観2

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年12月17日(金)19時20分9秒
返信・引用 編集済
 
 肉体上の死の後にも命が継続することは、”霊”との対話が成り立っていることを確かめることによって立証されました。”霊”との対話を一般には霊界通信と呼びますが、それが確かにいかさまではないことを多角的に調べました。地域によって多少の差はありますが、霊界通信についての研究が行われたのは主として19世紀後半から20世紀前半のアメリカ、イギリス、オランダでです。

 同時のトップクラスの科学者たちが、霊界通信や心霊現象をいかさまであると前提して、そのいかさまを暴く目的でことに当たりました。事実、多くの偽心霊現象が暴かれました。しかし、中には、どうにも、真実と認めざるを得ない霊界通信がありました。それらを何年もかけて検証し、結局は、霊界通信が可能であることを認めることになりました。もちろん、トップクラスの科学者たちですから、それも、偽物であると立証したくてことに当たったのですから、実験の方法も、記録も、証人の立て方も、全てが科学のマナーに則っていて、それ故に、そこから得られる結論には、けちの付けようがありませんでした。それでも、事実や理論を感情的に無視する科学者は、大勢います。それは今でも変わりません。ただ、ことは多数決ではなく理論ですから、霊界の実在抜きには説明できないと結論されるなら、それは立証されたと言えます。

 霊界に生きた知性があり、その知性と会話が成り立つことが、その原理も含めて霊界から説明され、それを検証するための材料まで与えられました。その真実性が確かめられた以上は、そして、実際に会話が成り立っている以上は、疑いの余地はありません。そして、彼らの主張に耳を貸せば、生身で生きる人たちの死生観が間違っているために、死後にまで悪影響があり、それでは困るとして、生身の人たちの再教育のために霊界通信を中心にさまざまな心霊現象を計画的に引き起こしている、と云うことです。

 そして、目的が再教育のためにメッセージをもたらすことにあるのだから、心霊現象が事実であることが分かれば、その研究に意識を向けるのではなく、自分たちのメッセージの方にこそ目を向けて欲しい、と言っています。それはそうですね。なので、ここでも、心霊現象の仕組みやその立証の話題より、彼らがどんなメッセージをもたらしているかに注目したいと思います。その前提が死生観の是正です。死後の生活があるかないかではなく、死後にも意識的な生活があることが前提です。その上で、個人の価値観の問題となります。

 と云うわけで、死後にも意識的な生活が存続する、と云うことが何を意味するかのお話です。結論から云えば、死後の生活は、確かに肉体は脱ぎ捨てて、肉体をまとっているが故の多くの限界を超える、と言うこと、肉体がないがゆえに生身の状態とは多くの点で違った生き方をするようになるのですが、それでも、それは今の生身の生活の延長上にある、だから、そのつもりで今を大切に生きなければいけないのです。

 肉体を脱ぎ捨てて霊界の住人になったのなら、生身の頃のことが全てリセットされるのなら、死んだ後のことまで考えて今を送る必要はありません。死んだ後のことは後のこととして、今にだけ集中していれば良いことになりますし、どう生きようと死後に影響がないのであれば、この世を謳歌すれば良いことになります。この世を生きる上で不都合がない範囲で、やりたい放題にした方が得、と云うことになります。

 しかし、事実は違います。全てがリセットされるのではありません。肉体はなくなるのですから、肉体上の老いや病気や怪我はリセットされます。一方で、じゃぁ、身体がなくなってしまうのか、と言えばそうではなく、生身であった頃の姿のままに身体があります。赤ん坊の頃に戻ってしまうのか、と言えば、それも違って、亡くなったときの姿に近い状態です。多くの場合には、時間が経てば、青年の頃のような状態になるようです。それはともかく、自分を自分であると認識できる状態の身体はあります。余談ですが、そのために、自分の死を自覚するまでに時間がかかってしまうことも少なくないほどです。

 そして、肝心なのはここからです。つまり、リセットされるのは物的な面だけであって、心の状態、それまでの記憶、意識、好み、考え方、生きてきたときの様々な言動の持つ意味、精神性、そういったことはそのまま引き継がれるのです。これらは脳が行う物的なことではなく、本質的には霊的なことであって、それ故に、死後にもそのまま引き継がれるのです。

 地上的なしがらみや義務からは解放されます。財産や名声や社会的な立場や評価さえも失うことになります。が、その人の人となりはそのままです。又、その人自身が忘れているようなことでも、あるいは、他人からは隠し通した秘密も、そのまま携えて霊界入りすることになります。

 引き継がれるのは、その人の個性であり、霊としての言動の履歴です。価値基準は、霊として如何に向上できたか、霊として如何に自分を他のために役立てたか、だけです。”霊として”と云うところは難しいですね。それについては別途ご説明することになると思いますが、この世的な価値ではない、と云うこと、理想にどれだけ自分を近づけているか、であると思って下さい。

 死が終焉ではない、自分と云うのは肉体ではない、死後にも生命が存続する、と云うのが意味するのは、とりあえずは上でお話したようなことです。これは、メッセージを届けることを目的に霊界通信と云う活動を積極的にしている霊たちの主張です。それだけでなく、私たちを教育する目的ではなく、単に霊界の生活の様子を私たちに紹介するために、地上側からのインタビューに答えてくれた霊たちの証言から得られる帰結でもあります。その霊たちにインタビューを出来るように霊界通信の環境を整えてくれた霊団には、もちろん、教育的な意図があります。しかし、インタビューに答えてくれた霊たちは、特別の目的や使命を持っているのではない、いわばごく普通の人たちです。その人たちの話を総合しても、意図してメッセージをもたらそうとした霊団の説明と同じ帰結に至れます。

 と云うことで、今回の話題は、死後にも意識的な生活があり、精神的には今の延長、です。次の話題は、生身の生き方が死後の生活にどう関わるか、それをお話しします。


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死生観1

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年12月14日(火)13時14分58秒
返信・引用 編集済
   生や死をどう意義付けし、どう考えるは、個人の価値観の問題です。しかし、個人の価値観であるとする前に、それに左右されない事実があります。

 現象としての事実、あるいは、それから導かれる必然、それらを正しく理解した上で、その先に個人の価値観による意味付けがあるべきです。間違った事実認識をしておいて、個人の価値観云々と言っても、それは見当はずれで不適切になってしまいます。それでは、事実さえ知っていればそんな判断はしなかったのに、なんてことになりかねません。

 結論を先に言ってしまえば、そう云うもったいない生き方をしている人が大部分で、社会も見当外れの事実認識の上にルールを作りそれを運用しています。なので、とてももったいなく、同時に、とても困ったことになっているのが現実です。

 スピリチュアリズムだ、霊的真理だと云うと、面白半分や恐いもの見たさのオカルト主義に聞こえるかも知れませんが、そうではありません。今をより良く生きるために、正しい死生観が必要で、そのためのスピリチュアリズムであり、霊的真理といえます、とりあえずは。とりあえずは、と云う以上は、その先により現実にマッチした捕らえ方があるのですが、それは死生観のお話をしてからに譲りましょう。

 と云うことで、死生観のお話ですが、その最初にお話しすべきことは、死後にも意識的生活がある、死後の世界はある、死んでもお終いではない、と云うことです。それが、事実として確認されている、と云うことです。一部の霊能者の特殊な主観でそう言っているのが従来の神秘主義や宗教でしたが、今はもうそうではなくなっています。客観的な事実として、再現性をもって死後生命の実在が立証されています。感情的に認めない人は別にして、理屈で考えることの出来る人なら、死後はある、と認めざるを得ない証拠が腐るほどあります。

 これらのことから、まず最初は、死んだらお終い、と云う価値観が妄想であることを指摘しておきます。どうしてそう言えるか、と云うことについて次で軽く触れますが、それより重要なこととして、生命の死後存続の意味する所についてを主題にしてお話します。

 何故なら、死後存続を立証する学術報告はたくさん提出されているので、調べようと思えばいくらでも調べられるからですし、この掲示板上でもどのような経緯で生命の死後存続が立証されてきたかについては触れているからです。そして、立証されている以上は、「では、それが何を意味するか」こそが問われるべきだからです。何を意味するか、などのお話も、死後の生命が存続し、しかも、死後の人々との交流があってこそもたらされた情報である以上は、もう、立証の方法の話題はただの方法論、道具のお話になってしまいます。

 道具それ自体にも意義はありますが、しかし、道具は使ってこそ真価を発揮します。なので、意義のお話を主体にします。

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12/8は

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年12月 8日(水)13時10分23秒
返信・引用 編集済
   今日12月8日は、ジョン レノンの命日です。スピリチュアリズム的には、命日それ自体にこれと言った意味はありませんが、生身で地上に生きる私たちには、故人を思い出す良い機会です。

 非暴力を訴え、何が大切かを見抜き、それを実践していたジョン レノン。数分間の楽曲を作ることより、子供(ショーン君のこと)をまっすぐに育てることの方がずっとクリエイティブなんだ、と言って、積極的に子育てに関わっていたそうです。

 そんな彼が、彼の否定していた暴力によって殺されてしまったことは、本当に悲しいことです。犯人の心が悲しいだけでなく、何かを暴力で解決しようとしてしまう人類全体の未熟さが悲しいです。自分自身のことも含め、まだまだ未熟で必要もないのにわざわざ苦しみを背負ってしまう社会が悲しいです。

 死そのものは、亡くなった当人には、悲しむべきことではありません。肉体と云う手かせ足かせをはずしてもらい、目隠しや耳栓を取り除いてもらったようなものです。なので、開放です。ですから、死そのものは悲しむべきことではありません。しかし、肉体と云うハンディキャップを纏いながら霊性を磨くと云う本来の目的を充分にまっとうしないまま他界することは、悲しむに値します。あるいは、正しい死生観を持たないままに、誤ったり偏ったりした状態で亡くなることも、悲しいことです。

 そして、遺族や知人が自分の死を永遠の別れと思って悲しむことも、亡くなった当人には悲しむに値することです。それは分かっているのですが、ジョン レノンを失った人類社会は損をしたなぁ、と思ってしまいます。彼が今尚生身でメッセージを発し続けていれば、と思ってしまいます。そうではないからこそ、彼が遺した彼の愛を尊く思うところもあるのでしょうが、そんな思いにさせる彼には、イエスに通ずるものがあるように感じます。

 と云うことで、次のテーマは、正しい死生観としたいと思います。
 

背後霊がいる意義

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年11月30日(火)13時15分55秒
返信・引用 編集済
   ここまで、背後霊の役割についてご説明し、あわせて、霊的な影響の受け方についてご紹介して来ました。私たち一人ひとりに例外なく背後霊がついていてくれていることは、実に多くの示唆を私たちに与えてくれます。

 背後霊の役目を理解することは、即ち、私たちの人生の意味やルール(摂理)を理解することに繋がりますし、人生をより良く歩むために必要な心がけにも考えを到達させることになります。背後霊の役目の果たし方、私への影響の与え方のパターンを知ることは、裏を返せば、好ましからざる霊の影響を受けないようにするその術を知ることにもなります。同時に、もし、好ましくない影響を受けてしまったとしても、影響を受けると云うことが何を意味するか知っていれば、自らの浄化や向上に繋げてゆけます。

 もちろん、それらだけでも充分に有意義なのですが、更に私たちにとってありがたいことには、誰一人として見捨てられ、忘れ去られることなどないのだ、と云う事実を知ることです。霊界で人生の計画を立ててから生まれているとは云え、その事実をほとんど忘れているのですから、そして、艱難辛苦が正に良薬であるとは云え、苦しんでいる最中には全体像やその後の経過、あるいは、効果については分からないのですから、私たち以上に私たちを知る霊団が導いてくれているその事実は、人生の方向を見失わずにすむように、コンパスを手にしたような安心感を与えられるものです。

 誰でも、世界から見捨てられたような孤独、これ以上はないと思えるような苦しみ、全てが無意味に思えるような虚無感、あるいは、これらに類するような困った事態に陥ることがあります。そう云う時には、神も仏もあるものか、と云う気になることでしょう。しかし、そうではなく、世界を作り、今なおその活動を支えている大霊の意を汲む霊的な組織が、自分のことも導いてくれるのですから、先を読めないながらも真摯に努力することに勇気を与えてくれるはずです。

 誰一人とし大霊が作った摂理から外れて割を食うことがない、と言うだけではありません。孤軍奮闘しているのではなく味方が力を貸してくれているのです。それも霊的な視野を持った仲間です。これは心強いことではありませんか。

 なので、困った事態に遭って、どうして良いか判断できない時にでも、心を乱さずに、導きを求めて心の耳を澄ましてみてください。霊的真理を知っていても、具体的には困ってしまうことがありますが、そうした時にも、慌てず騒がずアドバイスを求めてみてください。そうすれば、声は聞こえなくとも、良い解決方法を思いつく、あるいは、目の前にもともとあったヒントに気付く、と云うような形で導かれることでしょう。問題の質や大きさに対して、ご自分の霊性が不足していれば、時には背後霊の導きに反応できないこともあるでしょう。そう云うときでも見捨てられることはありません。自分を役立てる行動に徹していさえすれば、自分で気付けなくとも、最後には背後霊が何とかしてくれます。

 ですから、背後霊の実在は、実に大切な福音なのです。その福音を有効に活かすのは、最終的には、心を静かにしていること、そして、利他的な方向性を維持することです。どうぞ、参考にしてみてください。

 

部外者の霊からの横槍2

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年11月26日(金)19時12分37秒
返信・引用
   前回の投稿で、追加や推敲をすると書きましたが、改めるところがなく、追加だけしたいので、部外者の霊からの横槍2として、続きを投稿します。

 人は良くも悪くも色々な霊からの影響を受け、それを自分なりにミックスして自らの意志としています。どんな霊のどんな声をどのくらい取り入れるか、と云う所にオリジナリティーがある、と云うくらいに多くの影響を受けています。よく漫画やアニメで天使の導きと、悪魔のそそのかしの間で揺れ動くシーンがありますが、あれをもっと複雑にした感じです。

 背後霊の影響ばかりになり、しかも、それがいつまでもい続けるようなら「憑依」と呼ばれる形ですが、そこまでいかなくとも、心の持ちようで、好ましからざる霊の影響を多く受けてしまうことはままあることです。波長同調、つまり、一種の共鳴なので、自分から好ましくない心の状態を作れば、好ましくない考えを持った部外者の霊に割り込まれることになります。やたらと腹を立てたり、悲しみ過ぎたり、不安を抱いたりすると、そう云う霊の影響をより多く受けることになり、好ましくない霊の影響を余計に受けることになります。

 背後霊は、そう云うことにならないように、私たちを導こうとしますが、最終的には本人の自由意志が優先しますから、自分で招き寄せてしまう霊まで強制的に排除することは出来ません。なので、心をあまりネガティブな方向に傾けてしまうのは、得策ではありません。部外者からの横槍が多すぎれば、背後霊は背後霊としての役目を充分に果たせなくなり、最終的には、どうすれば良いのかに当人が気付くまで放置せざるを得なくなる場合もあります。

 しかし、それも当人の勉強のためであって、決して見捨てているのではありません。辛い思いをしながらも、見守っているのです。そして、背後霊の方に同調するチャンスをつかんでは、どうすれば良いかに気付いてくれるように働きかけます。つまり、横槍に割り込まれないように、自らを律している責任が私たち生身の者にあります。

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部外者の霊からの横槍1

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年11月25日(木)13時12分59秒
返信・引用 編集済
   背後霊についてのお話の最中なのですが、背後霊の役目に関連があるので、部外者の霊からの横槍についてお話します。

 先にもお話したとおり、特に霊感が強くなくても、生身の人は色々な霊からの働きかけを受けています。その多くは、心に訴えかけるもので、主観的には自分で発想したように感じるものです。しかし、実際には、自分で発想していると言うよりも、そんな気にさせられている、と云うことが大部分です。よく言えば導きであり、アドバイスを受け入れた形です。インスピレーションで受取っていると云うことです。

 この方法は、実は、背後霊だけが用いるのではありません。霊と霊のコミュニケーションとは元来こうしたもので、波長が合うと以心伝心で通じます。生身では脳で考えている分だけ認識が甘いので、誰か別の人の考えが分かる、と云う具合に認識できる訳ではありませんが、それでも、何となくメッセージの主の言わんとしている方向に感情や考えが傾くのです。

 このようなことは、どこかに共通した何かや、同じ事柄に興味を持っていると起き易くなります。生身の人同士でも、同じことに興味を持っていれば、意気投合し、多くを語らなくとも分かり合え、そして、言葉も多くなります。それと同じです。波長同調の法則で惹かれ合う、と云うことです。そうして、心に影響が届きます。

 いわば、霊的な法則に従ったコミュニケーションなのです。そして、それは、背後霊でなくとも、全くの部外者との間でも可能です。つまり、背後霊でもない霊が、性格が似ていたり、同じことに興味を持っているなど、同調できる何かがあれば、ちょっかいを出すことがあります。ネット上のコミュニケーション(例えば、掲示板上での話題)に部外者が割り込んで邪魔をするのと同じように、訊かれても乞われてもいないのに、自分の考えを述べたり、時には意図的にでたらめを吹き込んだりします。

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背後霊の役目

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年11月22日(月)18時05分9秒
返信・引用
   このシリーズで、誰にでも守護霊率いる背後霊団がいて、見捨てられることなどない、と云うお話をしました。そして、守護霊は障害にただ一人ですが、その指示や証人のもとに私たちに手を貸してくれる様々な霊が背後霊であること、意識出来る出来ないに関係なく、私たちは背後霊からの働きかけを受けていることもご紹介しました。では、背後霊たちは、どのように私たちに働きかけているのでしょうか?。その役目とは何でしょうか、その辺りをお話します。

 ごくごく大雑把に言えば、背後霊の役目は、私たち生身の者が、魂の上での修行をすることを手伝うことにあります。詳しくは別の話題としますが、私たちは、魂の上での勉強をするためにこの生身の世界に生まれてきました。大雑把に言えばその学習とは、自分を他のために役立てるために霊性を向上させることにあるのですが、具体的なテーマは、人それぞれに違います。生まれる前に学習のテーマを自分で決めて、計画を持って生まれてくるのです。

 しかし、肉体の脳で考えることが私たちの限界となり、もともとの計画や目的を意識できません。現に、自分たちが霊界の住人であることすら思い出せない始末です。それでは、せっかく立てた学習の計画が台無しです。言ってみれば、目的地や地図を忘れたカーナビに従って、知らない町を宛てもなく走っているようなものだからです。それでは困ってしまいます。

 そこで、背後霊たちが私たちを本来の目的をまっとうできるように、導いてくれているのです。大きく方向をガイドしてくれる役目もあれば、細かな注意やアドバイスを与えてくれる役目もあります。その霊の得意分野によって、その時の必要性に合わせて、色々と働きかけてくれます。

 その働きかけは、多くの場合には、インスピレーション型であって、私たちの考え方や嗜好性に影響を与えるような方法を採ります。どこからともなく姿なき声が聞こえたり、あるいは、自分にアドバイスする生身ならぬ誰かに呼び止められる、と云うようなパターンは例外の部類です。

 何となくそんな気がして始めてみた、とか、訳もなくやりたくなった、とか、逆に、どうしてもそれをしたくなくて止めてしまった、と云うようなことは誰にでもあると思います。そう云うパターンで働きかけることが多いものです。何かのアイディアが湧き上がるのもそうですし、無性にどこかに行きたくなるのもそうです。

 運動をしている時には運動が得意な霊が手助けをしてくれ、芸術に取り組んでいる時にはその道を得意とする霊が影響を与え、理詰めのことをしている時にはそれが得意な霊が寄り添い、アドバイスをくれます。芸術家が、良く「降りてくる」などと言いますが、そう云うことなのです。そして、それは、実は、誰の身にも起きているのです。感受性が鈍いと、自分で発想しているように思ってしまいますが、その実、背後霊からの受け売りだったりするのです。

 そうして、宛てもなくふらふらしてしまわないように、大きく方向付けをしてくれ、具体的な行動においてもアドバイスをくれているのです。ただし、余程の必要性や正当性がない限りは、それは心に影響を与えるだけです。何がしかの巡り合わせに導くにしても、相手を作ることは出来ませんので、出合える様な行動をする気にさせる、と云うパターンをとります。決して、強制はしませんし、本人の自由意志を優先させると言う原則は踏み越えません。なので、導きを無視したり、受け止め損ねることはしようと思えば出来てしまいます。

 なので、せっかくの導きも私たちの自由で台無しにしてしまい、結果としてその小さな目的に限って言えば失敗してしまうこともあります。あるいは、霊性を向上させるための学習とはそもそも厳しいもので、一見すると辛く惨めに思えることもしばしばです。こうした、自分でしでかした失敗や、もともとの学習の辛さのためにへこんでしまったり、自暴自棄になってしまったり、あきらめて欲望のままに生きてしまったり、と云うような脇道にそれてしまうこともあります。悲しみで心を傷めてしまうこともあれば、間違った考えに陥ってしまうこともあります。

 そんな時にも、背後霊は私たちに働きかけてくれます。元気を失っているなら、元気を取り戻せるように元気をくれます。あとあとに問題を引きずるような行動に出ようとしている時には、そうしないように止めてもくれます。悲しみに負けそうなときには、悲しみを乗り越えられるように力も吹き込んでくれます。霊的な悟りとは、ともすると悲しみや苦しみの中で得られることが多いのですが、そんな時には、おかしな方向へ行ってしまうリスクのある時とも言えます。そんな危険と隣り合わせのチャンスの時に、恙無くチャンスをものに出来るように働きかけてくれるのです。ただし、あくまでも、私たちの自由意志を尊重しつつです。

 そんなパターンで働きかけてくれるのですが、実は、そう云うことをしているのは、守護霊をトップとする背後霊団だけではありません。守護霊とは関係なく、背後霊とは言えないいわば全くの部外者の影響も受けています。詳しくは次の話題としますが、そう云う部外者の横槍から守ることもしてくれます。それで「守護霊」と云うような表現になっている面もあります。そんな役目もある、と云うことで、実のところ、護衛するだけでなく、実に様々な役目があり、守護霊がそれをコントロールしています。

 では、次には、部外者の霊からの横槍についてお話します。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

Re: 背後霊とは

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年11月18日(木)13時07分57秒
返信・引用
  > No.6429[元記事へ]

 大変に長いこと書き込みがありませんでした。かく言う私も、メールのやりとりはしているものの、ここへもブログへも書き込みが滞りがちでした。

 この掲示板は、霊的向上を目指したり、スピリチュアリズムに興味のある方の肯定的な交流の場です。なので、どうしても、投稿がなければ私も書き込みにくい面があります。言い訳になってしまいますが、そうした面もあって私自身も投稿しないまま時間が無駄に流れてしまいました。

 しかし、そう云うことではいけません。そもそも、何のための交流の場かと言えば、ネット上での社交ではなく、あくまでも真理の普及のためなのです。公式サイト「おいしい人生」だけでは、ダイナミックにお伝えできないことをお伝するための交流なのです。ですから、書き込みがなくても、掲示板としての本来の役目にこれを使って、真理のご紹介をしたら良いのです。この世を生きる上で踏まえておくと良い真理をここに掲示しておけば、例え書き込みがなくても、もしかしたらどなたかのお役に立つかもしれません。

 なので、交流と言う手段はまたそのご縁が出来た時に随時行うとして、私以外に書き込みがない今の時期でも、真理についてのお話を続けようと思います。以前からここをお読みになっている方ももうお忘れかも知れませんが、お話は背後霊の役目をご紹介するところまで来ています。その話にご記憶のない方はもちろん、これまでにお読みになった方も、復習の意味で、過去にさかのぼって投稿を読んでいただくと良いかと思います。この記事の上の方にあるリンクをクリックすれば、一つだけですが、背後霊についてご紹介している書き込みへジャンプできます。それ以前へは、お手数ですが、私のハンドルネームやタイトルを目印にして遡って下さい。

 では、お話を続けようと思います。話題は、背後霊の役目についてです。ですが、長くなりましたので、稿を改めます。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

それは良かったです

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年 9月29日(水)00時14分52秒
返信・引用
  タフィさん
>夫の仕事が決まり

 それは良かったです。

>それが、また、私の勉強にもなる気がするのです。

 ですね(^o^)。

>江戸崎さん、お元気ですか?夏バテしていませんか?
 ありがとうございます。おかげさまで、そう云うのには、全くご縁がありません。すこぶる元気です。

http://www31.ocn.ne.jp/~iwm/

 

こんばんは^^^^

 投稿者:タフィ  投稿日:2010年 9月22日(水)18時56分46秒
返信・引用
  皆さん、お久しぶりです。
少し秋めいてきたと思っていたら今日は真夏・・暑いですね^^;
今年はずっと半袖でいいのじゃないかしら。

きららさん、はじめまして^^宜しくお願いします。

夫の仕事が決まり、ほっとして、少し気が緩んで疲れてしまいました。夫にしてみれば一からのスタートです。職場というより学校ですね。お金ももちろん大事ですが、いろいろな発見をして実になる時間を増やしていって欲しいです。
それが、また、私の勉強にもなる気がするのです。

最近、私は怠けています。あれが嫌だ、これが嫌い、などど後から後悔するのは分かっていながら感情に押されていたので今、お返しが来ています。明日から修正しなくっちゃ。とほほ・・・。

ここさんの‘ここ’ってそういう意味だったんですねぇ。素敵ですねぇ。。
私も、自分を応援してくれている背後霊の名を知りたくて何度か訪ねてみたのですが、なかなか受け取れなくて諦めていたところ、ある時寝入りっぱなに‘コール’って教えてくれました。ミヒャエル・コールだそうです。なんでフルネーム?でもこれは集団の名前らしいです。
ホントかどうか分かりませんが語りかけやすくなりました。あちらにしたら名前なんて大した意味はないんでしょうね。

江戸崎さん、お元気ですか?夏バテしていませんか?
 

きららさんこんばんは(^_^)/

 投稿者:ここ  投稿日:2010年 8月28日(土)03時16分38秒
返信・引用
  少しは空も周りの虫のこえも秋らしくなってきましたが、まだまだ蒸し暑い夜が続きますね。
うちの息子もころころころころ転がって・・妻の身体にときどき足の一撃があります^^;
眠る時間はながいですね~。
このところは7時までには起きてきて”虫捕りいこ~”と誘います。
仕事前に、10分程度お散歩しています(*^_^*)
(セミを捕獲して、しばらく観察してから逃がすのです)

また~(^_^)/~

http://blog.goo.ne.jp/koko_blueearth2010/

 

お出かけ

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年 8月21日(土)00時48分5秒
返信・引用
   夜が明ければ、毎年恒例の家族旅行です。と言っても、我が家の負担はガソリン代や高速代くらいで、旅館代その他は連れ愛の実家が出してくれます。なので、これはもう、お抱え運転手の状態です。

 それでも、こうした旅行が出来ると云うことは、本当に導かれているのだなぁ、と思います。なかなか書き込めなくて、更に旅行で日が空いてしまいますが、何とか元気にやっています。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

ここさん(*^-^*) こんばんは☆

 投稿者:きらら☆  投稿日:2010年 8月 8日(日)20時57分1秒
返信・引用
  > No.6438[元記事へ]

ここさん、こんばんはヽ(‘ ∇‘ )ノ返事お返しするのが遅くなってごめんなさい。
暑い毎日ですが、洗濯物は気持ちがいいくらい乾いてくれて、主婦の私にとってはありがたいです。夕方雨が降ると、夜風もとても涼しく気持ちいいのですが、降る事なく蒸し暑い夜が今年は何度かあります。子供って暑い敷布団の上を、コロコロ☆コロコロ☆動きますね。深夜1時過ぎると、気温がグーン↓と下がりますので、私は子供にタオルケットをかける為、随時起きてます。(一応腹巻はしているのですが(o^^o)***ここさんのお子さん(小3)はそれほど動くことなく入眠されていますか?(*^-^*)


> 入眠前の「アミ 小さな宇宙人」の読みきかせを楽しみにしてくれています。 少しずつ読み・・今は3巻目の後半です。

{きらら☆}入眠前の読み聞かせ、素晴らしい習慣ですね。ヽ(‘ ∇‘ )ノうちの娘達はまだまだ幼く、部屋の明かりを8時に消して、子守唄を聞きながら入眠するパターンですので、読み聞かせはお風呂後によくしています。


> いい本ですよ。気が向いたら是非読んでみてくださいね!

{きらら☆}詳しく教えて頂きましてありがとうございました。さっそく!本屋さんに注文致しました。大人が読んでも楽しそうですね。子供にゆっくり読んであげてみたいと思います。(夏休みの課題図書より、喜ぶヽ(‘ ∇‘ )ノかも)


> 担当医には手術対象になるレベルだといわれましたから^^;

{きらら☆}えっ!!!手術対象レベル!!ですか。激痛だったんですね・・・↓(泣く)痛みが緩和されて、本当によかったです。奥様や職場の方も御安心されたでしょう。(*^-^)ヒーリングって素晴らしいですね。(*^-^*)

> 指導霊をライトと呼ばれていらっしゃるのですね☆> 美しいネーミングですね。 それも、もしかしたら指導霊から伝えられていたものかもしれませんね。

{きらら☆}ここさん、ありがとう(*^-^*) 「美しいネーミングですね。」って言って頂いてとても嬉しいです。指導霊から伝えられたものでしたら、心から喜びが湧き上がりますヽ(‘ ∇‘ )ノ。ここさんからそう言って頂けたから、本当にそんな気がします。


> 海や花火はたのしかったですか(^o^)

{きらら☆}15年ぐらい海に行ってなかったので。・゚゚・(>д<;)・゚゚・。、海の素晴らしさと太陽の輝きの素晴らしさに感動しました。30分ぐらい主人に子供を見てもらって一人で、たっぷり波のリズムと動きを楽しませてもらいました。力を抜いて波の動きにあわせて浮かび、波が打ち上げ去っていく音を聞いてました。私情も感情もない・出てこない状況の中で、包まれ守られているような優しい心地よい感覚が体験できてよかったです。花火!!!よかったですよ。煙も風でよく流れて、美しかったですよ。毎年開催して頂けるのでありがたいです。お盆が近くなり、嫁の私は掃除・仏壇の盆準備・親戚第二弾目の接待・草取りとバタバタと、忙しくなります。返事お返しするのが遅くなると思います。☆☆☆元気でお過ごし下さいね(*^-゚)/~
 

江戸崎さんありがとうございました。

 投稿者:きらら☆  投稿日:2010年 8月 8日(日)18時03分29秒
返信・引用
  > No.6437[元記事へ]

江戸崎さん、こんにちは。(*^-^*) 返事が遅くなりまして、本当にごめんなさい。花火!!よかったですよ。開始5分前には、雨も上がり川風の心地よさを感じながら、家族揃って美しい花火を見ることができました。主人は夕食前でしたので、自家製玄米おにぎりと煮物を用意していきました。小さな花火大会でしたが、ハートの形の花火が上がるたび、娘と私は歓声をあげてました。\(^ ^)/

<<毎年、江戸崎町の花火を楽しみにしていますが、今年はお出かけと重なってみることが出来ません。残念ですが、来年を楽しみにしています。

{きらら☆}今年は花火を見に行かれなくって残念。・゚゚・(>д<;)・゚゚・。ですね。でも、また来年素敵な花火を家族の皆さんと見て、素晴らしいひと時を過ごして下さいね。

<<①直感とインスピレーションの違い>言葉そのものの意味で言うなら、インスピレーションは直感の一種ですが、そこに、霊的な意味が含まれてきます。つまり、霊界側からの働きかけを直感として受け取ると、インスピレーションとなるのですね。

{きらら☆}江戸崎さん、親切に教えて頂きありがとうございました。納得しました。
スッキリ☆☆です。

<<ただ、他のところでもシルバーバーチが説明していますが、人の発想や思い付きと云うものの大部分は、自分のオリジナルではなく、多かれ少なかれ、霊界側からの印象付けを受け取った結果なのだそうです。それ以外にも、生身の人同士の影響(生身の人も霊ですから)も含めれば、もうほとんどが受け売り、と云うことになります。自分のオリジナリティーは、どの情報をどう選びとり、どう組み合わせるか、と云うところにあるようです。

{きらら☆}霊界側からの印象付けを受け取った結果。⇒はい。わかりました。自分のオリジナリティはどの情報をどう選びとり、どう組み合わせる・・⇒大切ですね。


<<そのことを踏まえて考えれば、多くの場合には直感とインスピレーションは結局は同じでしょう。言葉そのものの意味では、直観は理屈を越えたひらめきであって、霊感は関わらないのですが、結果的には霊からの働きかけを受けているのですから、インスピレーションと変りません。

{きらら☆}同じなんですね。わかりました。(*^-^)霊からの働きかけを受けている!!ってありがたいですね。江戸崎さん、本人の受け取る時の状況によってもかなり影響してくるのでしょうか。私が変なんだと思いますが、迷うときほどそして、悲しみに涙流している時ほど心に伝わる言葉を強く感じます。(近くにいて助けて頂いてるのですね。)。。。今は憑依はなくなりましたが、以前「この場所あまり行きたくないなぁ」「どうしても行きたくない」と言う気持ちがありました。これもインスピレーションだったのでしょうか。



<<翻訳の問題で、シルバーバーチ自身は、直感(intuition)とは云わず、インスピレーション(霊感による創造的なひらめき:inspiration)と言っているのかもしれません。それを、直感と訳しただけではないでしょうか?。

{きらら☆}う~ん。そう言われたそうかもしれませんね。(*^-^*) わかりました。


<<”基本理念”と云う言い方をしてしまうと、それで全部でもないでしょうし、「こうであらねばならない」と云う具合に戒律的な印象になってしまいます。

{きらら☆}あらっ!!ごめんなさい。(>人<) 言葉が正しくなかったようです。失礼しました。


<<一般論としては、大筋で、あのような方向性で良いのだと思います。でも、具体的には、相手や環境にあわせる必要があります。

{きらら☆}はい、わかりました。相手や環境に合わせる事が大切なんですね。



<<これは難しいですよね。でも、言葉使いは子供向きでも、内容は大人に真理を紹介するのと基本的に同じで良いと思います。

{きらら☆}わぁ~(>人<) ややこしい質問してしまいましたね。すみません。伝える事は大人と基本的に同じとわかりまして、少し安心しました。ありがとうございます。(*^-^)

<<つまり、因果律、自由意志と自己責任、黄金律、良心に従うことと自分勝手の違い、霊の実在とこの世の役目を話題にするのが良いと思います。特に、「黄金律、良心に従うことと自分勝手の違い」を諭すことでしょうか。

{きらら☆}かなりポイントを教えて頂けたおかげで、助かりました。子育てをしていく中で、自分も気をつけて実践していけますし、子供も将来親になった時に、我が子に伝えられる、形の見えない美しい宝物を渡してあげる事ができますからね。上の江戸崎さんに教えて頂いた事をもう一度復習してみます。ヽ(‘ ∇‘ )ノ

江戸崎さん、牧場のお仕事素晴らしいですね。ニコニコ(*^-^*) 笑って、多くのお子さん・そして愛らしい動物に囲まれて頑張っておられる姿が目に浮かびます。ドラえもんの「どこでもドア!」があったら、家族みんなで遊びに行きたいくらいです。うちの娘も、ポニー、羊、ウサギ、鳥、ヒョコ、モルモット・・・大好きですよ。海の帰り動物園に寄った際には、おおはしゃぎ☆☆で大人の私も癒されましたよ。うちの娘は魚の世話が好きで、昨日も午後の炎天下の中、「近所の親戚の鯉にえさをやりに行くの!」と言って、麩をもって出かけました。大きい鯉にはそのまま(*^-^*) 小さい鯉には細かくちぎって優しくそして、真剣にあげていましたよ。江戸崎さん、暑さ厳しいですけど、頑張ってくださいね。ヽ(‘ ∇‘ )ノ
 

きらら☆さん、こんにちは(^o^)丿

 投稿者:ここ  投稿日:2010年 8月 5日(木)19時22分37秒
返信・引用
  一年生と保育所ですか~、かわいいでしょうね(^_^)☆
うちの子は小3です。
入民前の「アミ 小さな宇宙人」の読みきかせを楽しみにしてくれています。
少しずつ読み・・今は3巻目の後半です。
いい本ですよ(^_^)
気が向いたら是非読んでみてくださいね!
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4198612706/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

ぎっくり腰は痛かったですねぇ・・担当医には手術対象になるレベルだといわれましたから^^;

他の方の受けるヒーリングの場合は別な形になるのではないかと思います。
江戸崎さん、いかがでしょうか?

指導霊をライトと呼ばれていらっしゃるのですね☆
美しいネーミングですね。
それも、もしかしたら指導霊から伝えられていたものかもしれませんね。

海や花火はたのしかったですか(^o^)

ではまた(^_^)/~
 

お待たせしました

 投稿者:江戸崎気功メール  投稿日:2010年 8月 5日(木)11時05分50秒
返信・引用
  きららさん
>今年は静かに橋の上で離れてみます

 花火はどうでしたか?。私のところは、毎年、江戸崎町の花火を楽しみにしていますが、今年はお出かけと重なってみることが出来ません。残念ですが、来年を楽しみにしています。

>①直感とインスピレーションの違い
 言葉そのものの意味で言うなら、インスピレーションは直感の一種ですが、そこに、霊的な意味が含まれてきます。つまり、霊界側からの働きかけを直感として受け取ると、インスピレーションとなるのですね。

 ただ、他のところでもシルバーバーチが説明していますが、人の発想や思い付きと云うものの大部分は、自分のオリジナルではなく、多かれ少なかれ、霊界側からの印象付けを受け取った結果なのだそうです。それ以外にも、生身の人同士の影響(生身の人も霊ですから)も含めれば、もうほとんどが受け売り、と云うことになります。自分のオリジナリティーは、どの情報をどう選びとり、どう組み合わせるか、と云うところにあるようです。

 そのことを踏まえて考えれば、多くの場合には直感とインスピレーションは結局は同じでしょう。言葉そのものの意味では、直観は理屈を越えたひらめきであって、霊感は関わらないのですが、結果的には霊からの働きかけを受けているのですから、インスピレーションと変りません。

 四巻のご質問の箇所についても、シルバーバーチは、直感をインスピレーションのこととして説明しています。もしかすると、これは、翻訳の問題で、シルバーバーチ自身は、直感(intuition)とは云わず、インスピレーション(霊感による創造的なひらめき:inspiration)と言っているのかもしれません。それを、直感と訳しただけではないでしょうか?。


>② この箇所が子育ての基本的理念として、とらえていいのでしょうか?
 ”基本理念”と云う言い方をしてしまうと、それで全部でもないでしょうし、「こうであらねばならない」と云う具合に戒律的な印象になってしまいます。しかし、一般論としては、大筋で、あのような方向性で良いのだと思います。でも、具体的には、相手や環境にあわせる必要があります。

>「こういうことは、子供に伝えるといいね(*^-^*) 」というお話がありましたら
 これは難しいですよね。でも、言葉使いは子供向きでも、内容は大人に真理を紹介するのと基本的に同じで良いと思います。つまり、因果律、自由意志と自己責任、黄金律、良心に従うことと自分勝手の違い、霊の実在とこの世の役目を話題にするのが良いと思います。特に、「黄金律、良心に従うことと自分勝手の違い」を諭すことでしょうか。

http://silver.ap.teacup.com/birch/

 

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